泣きながら赤飯を食べる

泣きながら赤飯を食べる

#ごはんのこと

2021/11/7

「泣きながらご飯食べたことがある人は、生きていけます。」とは、ドラマ『カルテット』での名言。このドラマはほんとうに素晴らしかった。これからも観てよかったものとして自分のなかに残り続けるだろうと思う。
さて、「泣きながらご飯食べたことがある人は、生きていけます。」、という言葉。いやはやたしかにそうかもなあと思う。
数年前に遡る
蒸す夏の真っ昼間。ブブブと鳴るスマホ。私はそのとき一本のメールを受け取った。どうしても参加したいと思いエントリーしていた会合からだ。(おー結果きた)と軽い気持ちでメールボックスを開いて、え、落ちてる。上から下まで画面をなぞる指が震える。呼吸が浅くなる。今回はお見送りとさせていただき・・・これからも応援しております。何度読んでも落ちてる。なにこれ。エントリーシートには今の自分が出せるだけの思いのたけを練って練って書いたから、そのエントリーシートは恥ずかしいほど赤裸裸な自分自身だった。それが、受け入れられなかった。否定された。みぞおちあたりが冷たくなり、喉の奥がぎゅっと狭くなって、熱い。その場所、吉祥寺駅・渋谷行き・井の頭線のホーム。直立不動の私の目の前で電車のドアが開き、どっと吐き出される人の波、吸い込まれる人の波、閉まるドア。地の底に突き落とされたような絶望感で冷たい汗がたらり脇をつたう。時間は13時を回ったところ。ぐうとおなかが鳴る。こんな時に鳴るなよ。ホームに背を向けキオスクに一直線、具の味なんか知るもんかとおにぎりを取って買い、おもむろに一口ほうばる。とたん決壊。涙がぼろぼろ音を立てて落ちてくる。なんでなんでなんで。思い描いたプランは白紙。くそ。一口、もう一口。仁王立ちで、涙といっしょに食べる。人がまだ少ない真っ昼間でよかった。また一口。また一口。ふう。おなかが満たされると人間、いったん落ち着くもんで。自分をどこまでも否定していたのが、キュッと堰き止められて、怒りが、勝ち始める。てか選考ってなに。誰が何目線で選考してんの。なんで私が落ちるわけ、意味わからん。そんでもって怒りって長続きしない。一回、深呼吸。そして、最後の一口は大きめに、がぶり。しっかり泣きはらした顔がしょっぱい。脳みその上のほうがぼわんと熱い。味は分からなかったけど、おにぎりのビニールを見て、こんな時にめでたいたべもの「赤飯」のおにぎりを選んでしまったのに気づいて、ふっと笑える。ごみをぎゅっと丸めてポケットに突っ込む。もう一回、深呼吸。予定したよりずいぶんと遅い電車に乗ることになった。そう私は人に会う予定で渋谷に向かっていた途中だった。窓の外を見て顔のほてりをさまそうとつとめたけどさすがに無理あって、これから会う予定の人に泣き顔で向かう旨を伝える。
そのあと、SNSにはしばらくその会合の様子がシェアされ続けて、そのたびにのどの奥はぎゅっと熱くなった。
その会合が終わってしばらくたったころには、もうのどの奥はぎゅっと熱くならなくなっていた。まあこれで自分の価値なんて決まらないわ、という、当たり前のことを当たり前に分かった。
食べるって、生き物として生きている以上どうにもこうにも抗えない欲求であり行為だ。たった今生まれたばっかりの赤ちゃんだって百歳越えのおばあちゃんだって性別なんてのはもちろん信仰も人種も国も住む場所も時代も、何が違ったってみんなおんなじなのは、食べなきゃ生きていけないってことだ。食べてるときは、娘である自分も社会人である自分も喫茶おおねこの自分もぜんぶひっくるめてどさっと脱ぎ捨てちゃってね、じんわりと満たされていくおなかとそのおなかの持ち主であるわたしだけがたしかなものとなって、自分自身を手の内に取り戻している感覚がある。食べることで、いったんただただ生きているだけの素朴な自分に戻ることで、絶対乗り越えられっこない悲しみも、よっこらしょっと乗り越えてきたような気が、おおげさでなくけっこうする。
それを知れて、ほんとうによかった。
泣いても、怒っても、叫んでてもいいので、ごはんは食べよう。
ながら食べても、いいので。
なにを食べても、いいので。

私がごはんを作る側に回りはじめるのはまたここからずっと、後のこと。

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